「リトル・ホワイトデー」
三月も半ばに入り、大分春めいて来た。
まだ風は少し冷たいけれど、その中にも、花の香りが混じっている。
交差点で一度深呼吸をしてから、通学路とは少しずれる坂道へ足を向ける。
学校へ行く前に、まずは、羽ヶ崎団地へ。
それが習慣となって、もう五ヶ月近くになる。
十月に、わたしのクラスに転校して来た男の子、古森拓君。
転校初日に、緊張したせいか、上手く自己紹介ができなくて。
クラスに馴染めるかどうか、心配していたら――その次の日から、学校に来なくなった。
わたしは毎朝、そんな彼の家に行って、声をかけている。帰りにも寄る。
それが、良いことなのかどうかも、解らない。
迷惑になっているのかもしれない。
本当は、そっとしておくべきなのかもしれない。
色々考えて、いつも迷うけれど。
それでも結局、毎朝、足が彼の家に向いてしまう。
何故だろう。
きっと、若王子先生に頼まれたから、というだけじゃない。
心配だから放っておけない。それだけでもない。
じゃあ、どうしてなのかというと、自分でもよく解らないけれど。
『ピンポーン』
(今日は、ドアを開けて、顔を見せてくれるかな?)
淡い期待を抱きながら、玄関のチャイムを押す。
もう、何度目のことだろう。
本当は、一緒に学校に行きたいけど…そんなの、今はまだ、夢のまた夢だ。
『…はい』
インターホン越しに、古森君の声が返って来る。
「おはよう、古森君。一緒に学校に行こう?」
なるべく明るく、いつもの言葉を口にすると、少し経って、ガチャリと玄関のドアが開いた。
「おはよう、古森君!」
出て来てくれたことが嬉しくて、思わず大きな声になるわたしに、出て来た古森君は、オズオズと紙袋を差し出した。
「……あの。……これ、良かったら……」
「え?」
小さな声で呟くように言う古森君。私は訳が判らないまま、紙袋を受け取る。
封をしていない紙袋の中を覗くと、中にはリンゴが数個入っている。ピカピカと赤く輝いて、凄く美味しそうだ。
「わあ、リンゴ! えっと、これ、私に?」
念のため確認すると、古森君は、こくんと頷いた。
「ありがとう、美味しそうだね。でも、どうして?」
「その……。……から」
じっと足元を見詰めながら、古森君が何か言う。
よく聞き取れず、「えっ?」と聞き返すと、古森君は、右手でセーターの左袖をギュッと握り、少し頬を赤らめて繰り返した。
「その……。……クッキー、美味しかった、から……」
「ああ、そっか、ホワイトデーだね? ありがとう!」
そう、今日はホワイトデー。家を出るとき、お隣の遊君からもお返しを貰ったばかりだ。
バレンタインに、古森君にも手作りのクッキーをあげたから、きっとそのお返しだろう。
古森君からもお返しが貰えるなんて思っていなかったから、驚いた。そして、凄く嬉しい。
「クッキー、食べてくれたんだ」
嬉しいな、と続けようとすると、カァッと古森君の顔が赤くなった。
それを見て、つられて、わたしも何故だか顔が熱くなる。
古森君が顔を真っ赤にしたまま、少し顔を上げ、口を開いた。
「……あ、あのっ」
「うん?」
「……いや……」
何か言いかけて、やっぱりいいや、という風に止める古森君。
うーん、何て言いたかったのかな?
「……それじゃ」
「あ、うん。リンゴ、本当にありがとう!」
家の中に戻ろうとする古森君に、もう一度お礼を言うと、古森君が、ほんの少しだけ顔を上げ、はにかむように微笑んだ。
その瞬間、胸が大きく高鳴った。
ガチャン、とドアが閉まってからも、少しその場を動けなかった。
胸がドキドキして、顔が熱く火照っている。
深呼吸して呼吸を整えてから、団地を後にし、学校へ向かう。
リンゴの入った紙袋を両腕で強く抱えながら、自然と早足になる。
気付けば、バス停まで走っていた。
初めて、古森君の笑顔を見た。
ほんの一瞬だったけど、嬉しくて嬉しくてたまらない。
こんな気持ちは、初めてだ。
どうして、毎日、古森君の家に足が向くのか。
チャイムを鳴らして、声をかけずにいられないのか。
やっと気付いた。
わたしが、古森君に会いたいからだ。
声が聞きたい。
顔が見たい。
できれば、もっと沢山。
もっと沢山、喋って欲しい。
顔を上げて、もっとよく顔を見せて欲しい。
今日みたいな笑顔を、また見たい。
あの優しい声で笑うのを、聞いてみたい。
古森君のため、なんかじゃない。
きっと、単なるわたしのわがまま。
それでも。
バレンタインのクッキー、美味しかったと言ってくれた。
ホワイトデーのお返しに、こんなに美味しそうなリンゴをくれた。
わたしに向かって、微笑んでくれた。
だから、多分、本気で迷惑がられ、嫌われてるってことはないよね?
かなり都合のいい解釈だけど。
だから、また、明日もあさっても、声をかけに行って、良いよね?
そうしていつか、一緒に学校に行きたい。
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「リトル・バレンタイン」の続きです。
古森君は色々悩んだ末、地元から送られて来たリンゴを贈っていると良い(アップルパイを作っておきながら、「手作りは重いかな…」と止めてたりしそう)。
副題:「赤い実はじけた~デイジーver」(※名木田恵子『赤い実はじけた』という小説があるんです)。
一瞬見えた古森君の笑顔に、デイジーの胸の中で赤い実がはじけちゃったんですよ、きっと。
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